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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [6]




「なんだ? 起きたのか?」
 間の抜けた栄一郎の声に一瞬足を止め、だがすぐに通り抜けようとする。
「あ、お待ちくださいませ。また寝ていなければ」
「寝てなんていられるか。ここはどこだ? 帰る」
 ズンズンと歩き出す早苗。
「帰るって、そっちは台所だぜ」
 栄一郎の言葉にピタリと足を止め、やがてクルリと反転する。
「出口はどこだ?」
 高圧的な態度に、栄一郎は思わずプッと噴出してしまう。途端、大きく息を吸って顔を真っ赤にさせる早苗。
「お前だな。こんなところに連れてきたのは」
 詰めより、睨みあげる。
「どういうつもりだ」
「責められる覚えはないな。高熱を出して倒れたところを病院にまで運んでやったというのにその態度か? 礼は言われても咎められる覚えはないんだがな」
「病院へ連れて行けと頼んだ覚えはない」
「意識も朦朧としていてほとんど何も覚えてはいない奴が何を言う。なんだったらあの神社に置き去りにしておけばよかったのか? 今なら寒さで凍えるなんて事もなかっただろうしな」
「置き去りにしてくれればよかっただろうっ」
 何だ、コイツ。
 人が親切にしてやったているというのに、この態度は何だというのだ。
「人の親切を何だと思ってやがる」
「親切にしてくれと頼んだ覚えはない」
「生意気な。これだから能無しの田舎娘は嫌いなんだ」
「嫌ならなんで連れ込んだんだ?」
「連れ込んだ? 冗談だろう?」
「だってそうだろう」
「安静にさせておけと言われたから連れてきただけであって」
「だから、連れてきてくれと頼んだ覚えは」
「朝早くからお元気ですねぇ」
 のんびりとした声が二人を遮る。振り返る先で、木崎が盆を手に笑っていた。オレンジジュースが乗っている。
「このような通路で言い争いとは、他の方に迷惑ですよ。どうぞお部屋へお戻りください」
 言って促すが、早苗は逆に身構える。
「帰る。どけ」
「帰るって、ここから? お一人で?」
 小首を傾げる木崎。
「まさか寮までお一人で? 失礼ですが、電車賃はお持ちで?」
「で、んしゃ?」
 戸惑いの色が瞳に浮かぶ。
「電車って、こ、ここは、どこ」
 瞳を泳がせ、忙しなく周囲を見渡す。そんな早苗に、木崎が口元を緩める。
「ここは霞流の別邸です。大旦那様がお住まいになられているお屋敷で、富丘という、まぁ、そのようなお話はお部屋に戻ってからにいたしましょう。とにかくお戻りください。どうせあなたはまだ帰る事はできません」
「帰れないって」
「まだ熱も下がってはいないはず。見たところずいぶんとお元気のようですが、一週間は安静にというのが医者からの指示です。さぁ」
「勝手な事を言うな」
 穏便に収めようとする木崎の言葉を無遠慮に遮る。
「私は帰る。帰らなきゃならないんだ」
「なぜ?」
「なぜって、だって仕事が、仕事があるんだ。休むワケにはいかない。今月はここまで皆勤なんだ。あと五日で皆勤賞が取れる。それに、仕事を休んだら他の人に迷惑が」
 そこで右手を額に当てる。身体がグラリと揺れる。使用人の女性が咄嗟に支えた。
「まだお熱が下がってはおりません」
 言いながら木崎と栄一郎を見上げる。木崎が大きく頷き、それを合図と受け取った使用人が、少し強引に早苗を部屋へと戻した。
「帰してくれ」
 投げ飛ばされるようにベッドへと寝かされ、それでも早苗は起き上がろうとする。
「仕事に戻らないと」
「ずいぶんと熱心だな。なんだ、無理矢理働かされているような事を言いながら、結局は好きで働いているんじゃないか」
 栄一郎の言葉に、早苗は目を剥いた。
「お前に言われたくないっ!」
 怒鳴り声と共に左手を振り払う。脇のテーブルに置かれていたコップを叩き落とした。オレンジジュースが床に零れた。勢いに驚いて栄一郎は一歩下がった。睨みつけてくる早苗の瞳を見返した。柑橘の香りが辺りに漂った。栄一郎はなぜだか、胸が締め付けられるような思いに陥った。



「きっとワシは、最初に出会った時から惹かれていたのではないかと思う」
 車椅子の手すりを撫でながら、栄一郎は皺枯れた声で笑う。
「あの驚異的な、情熱的な、挑戦的な瞳に、惹かれていたんだよ」
 栄一郎の内には無い瞳だった。存在しない、潜在しない情熱。鋭利だった。(やいば)だった。あれほどに明確な強ささえあれば、親元など飛び出して自由の元で己の人生を楽しむ事ができるくらいの勇気や度胸は、示せたのかもしれない。
「親元を飛び出す事だけが勇気や度胸とは限りません」
 老いた主の肩に手を乗せ、木崎が呟く。
「親元に残るのもまた強さの一つではあると、私は思っております」
 栄一郎は弱々しく笑った。瑠駆真はそんな二人のやりとりを、少し冷めた感情で見ているだけ。



 なんとか早苗に薬を飲ませ、寝かせた。もともと熱があり弱ってもいた身体には、睡眠効果のある薬はよく利いた。その後、工場の関係者と連絡を取る木崎のやり取りから、早苗の置かれている立場も少しだけ判明した。
 なぜ、早苗はあれほどまでに帰りたかったのか。職場に戻り、仕事がしたかったのか。
 木崎とやり取りをする職制は、早苗の休暇をかなり渋った。どうしても出勤できないのかとかなり食い下がってきたらしい。栄一郎が御曹司でなければ、早苗は強引にでも寮へと帰らされ、翌日には出勤させられていたに違いない。
「今は猫の手も欲しい時なんです。そんな、たかが熱があるくらいで休ませるなんて事、させないでくださいよ」
 泣きそうな声で懇願してくる職制。
「それでなくても、つい先日も一人が抜けて人手が足りないんです」
 あの、亡くなった女工の事か。
「そんなに人手不足なのか? 世の中は不況だろ? 工員を削減しなくちゃならないくらいのはずなんじゃないのか?」
 特需ブームの反動によるものか、世の中には繊維恐慌が吹き荒れていた。不況の真っ只中にあった。景気の良い時にひたすら大量に雇用した人手が、今となっては経営を圧迫している。近隣の大工場では大量の首切りが断行されていた。自殺者も出るほどだった。霞流の工場も、例外ではなかった。
「人員は削減しています。ですがその分、一人が面倒をみる織機の数を増やしているんですよ。彼女は十台の織機の面倒をみてるんです。その女工が休んだら、十台分の織機は誰がみるんですか? 今日は他の工員で穴埋めをさせますが、一週間なんて無茶ですよ。お願いですから明日にでも職場に復帰させてください。他の会社との競争も激しいんです」
 他の工員で穴埋めをさせる。
 きっと早苗は、それを気にしていたのだろう。自分が休めば、他の工員の仕事が増える。その分給料も増えるだなんて、そんな呑気な事が言えるのは、栄一郎のような何も知らない人間だけだ。
 小さな棺の中に、押し込められるようにして、足の骨を折られながら収められた、若い命。

「トイレに行かせる時間が惜しいといって水も飲ませてくれない」

 本当にそんなコトが、あの工場の中で起こっているのだろうか?
 少し赤い頬のまま寝息を立てている姿を眺めながら眉を潜めた。







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